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2024/07/05
30代、40代の男性に「一番好きなジブリアニメは?」と聞いて、意外と多く返ってくる答えが『耳をすませば』である。舞台は現代の日本、よくある私鉄沿線の街。作家を目指す14歳の本好き少女・月島雫と、バイオリン職人を目指す同級生・天沢聖司の交流を描く青春物語だ。世界を救う少女も、宝を狙う盗賊も出てこない。血湧き肉躍るアクションもない。なのになぜ、男たちはこの映画に惹かれてしまうのだろうか。
勘違いしている人が意外と多いのだが、この映画、監督はスタジオジブリの第一人者である宮崎駿ではない。高畑勲監督の『火垂るの墓』(1988年)や宮崎駿監督の『魔女の宅急便』(1989年)に作画監督という重要なスタッフとして参加した、故・近藤喜文(こんどう・よしふみ)唯一の監督作品である。
近藤監督は『耳をすませば』で、宮崎駿がやっていなかった2つのことをやった。ひとつは、ヒロインの住まいを団地(集合住宅)にしたこと。もうひとつは、少年少女の恋愛を直接的に描いたことだ。
まず、集合住宅について。それまでの宮崎アニメを思い出してみると、集合住宅住まいの主人公は思い浮かばない。
『風の谷のナウシカ』(1984年)のナウシカは、族長の家系として立派な家に父親と同居。『天空の城ラピュタ』(1986年)のパズーは、最高の眺望を誇る鉱山の一軒家にひとり暮らし。『となりのトトロ』(1988年)のサツキとメイは、趣ある和洋折衷の一軒家に父親と住んでいる。『魔女の宅急便』のキキは、実家がお洒落な一軒家、パン屋ではいい感じの離れにいた。『紅の豚』(1992年)のポルコ・ロッソは、アドリア海に浮かぶ小島の素敵な隠れ家で気ままに過ごしている。誰もが「ここに住みたい!」と思わず口に出すような住まいばかりだ。
ところが、『耳をすませば』で雫の家族4人が住むのは、何の変哲もない、とてつもなく平均的な団地(モデルは東京都多摩市にある愛宕団地と言われている)。言葉を選ばず言ってしまえば、画面からは明らかに「狭っ苦しさ」が伝わってくるし、それを感じさせる構図取り・演出が意図的に施されている。
そして恋愛描写について。宮崎アニメに出てくる少年少女は、お互い明らかに好意を抱いていても、直接的な愛情表現をほとんどしない。物語の展開上、巧みに恋愛描写が避けられているのだ。性をほとんど超越してしまっている聖人ナウシカ、シータに対して過剰にストイックな接し方のパズー、カンタに何も感じてないサツキ、トンボに男性性をまったく見いださないキキ……。
しかし対照的に、『耳をすませば』には、意図的な恋愛描写がある。聖司のバイオリン生演奏を伴奏に、雫が「カントリーロード」を独唱するシーンだ。雫は終始頬を紅潮させながら、最初は戸惑いの表情、やがてガチガチに緊張しながら歌い出し、徐々に高揚、最後は自分から体を動かして愉悦に浸る。「初夜の営み」すら想起させる、見てるこっちが恥ずかしくなってくるラブシーンだ。このような描写は、宮崎アニメでは絶対に見られない。
夢いっぱいの一軒家にはなかなか住めるものではないし、「恋愛なんて知らない」みたいな顔をした思春期の男女もまた、現実世界には存在しない。だから、宮崎アニメの家はとても“理想的”だし、恋愛描写が登場しないのはとても“非現実的”だ。対照的に、『耳をすませば』の集合住宅と少年少女の恋愛は、つとめて“現実的”だと言えるだろう。
もちろん、ファンタジーに浸るために一般人の現実描写など邪魔だという理屈も、わからなくもない。だが、もし雫が宮崎アニメのような家に住み、夢心地で充足した毎日を送っていたら、わざわざ創造力を駆使して物語を書こうなどと思っただろうか。ふたりのセッションという恋愛描写がなかったら、ラストで聖司と雫の婚約(!)は成就しただろうか。
現実ありきの自己実現と愛の達成。それが真正面から描かれているからこそ、いい年した男はこの物語に惹かれるのである。それは、彼らが毎朝(締めたくもない)ネクタイを締めるという“現実”に向かい合っていることと、無関係ではあるまい。
Photo by Sho Ikezoe
『耳をすませば』(1995年・日)
監督:近藤喜文
声の出演:本名陽子、高橋一生、立花隆、室井滋
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