物語のなかの集合住宅:第16回『ハチミツとクローバー』――朝日が眩しい東向き

 

美術大学生の男女5人を中心とした甘酸っぱい青春群像劇『ハチミツとクローバー』、通称『ハチクロ』は、ゼロ年代を代表する大ヒットラブコメマンガである。2本のTVアニメ化、日本と台湾でTVドラマ化、嵐の櫻井翔主演で実写映画化もされたので、作品名だけでも耳にしたことのある人は、かなり多いだろう。

メインを張るのは3人の男子学生だ。主人公で建築科2年の悩み多き純情男・竹本祐太、建築科4年のメガネ男子・真山巧、そして彫刻科に6年も在籍する自由人・森田忍。この3人が住むボロアパートは、連載第1回の1ページ目で、このように紹介された。

「6畳プラス台所3畳、フロなし、大学まで徒歩10分、築25年、家賃3万8千円、音はつつ抜け、全部屋学生、朝日が眩しい東向き」

彼らの通う「浜田山美術大学」の所在地は東京都杉並区。京王井の頭線浜田山駅は渋谷からたった15分の距離なので、この家賃はかなりリーズナブル。ただし、「朝日が眩しい東向き」にだけ違和感が残る。もし『ハチクロ』が「激安家賃のボロアパートで、貧しいながらも大学時代の青春を謳歌する話」なのであれば、日当たりの悪い北向きや西向きのほうが、ずっとそれっぽい。なのにこのアパートは、南向きに次ぐ好条件である「東向き」なのだ。

実は『ハチクロ』で「貧しいながらも楽しい、学生アパートの共同生活」が描かれるのは、単行本全10巻のうち、ほぼ第1巻のみである。飢えた男子学生たちが誰かの部屋に集まり、たまに手に入るコロッケやハムを皆で貪り食う――といった微笑ましいシーンは、物語冒頭にしか出てこない。大半の話は、アパートの「外」で彼らが味わう挫折の描写に費やされる。牧歌的なアパート「内」の描写は、2巻以降ほとんど登場しなくなるのだ。

たとえば竹本は、自分に才能が乏しいことを、こともあろうに最愛の人である後輩の1年生・はぐみによって思い知らされる。はぐみはマスコットアイドル的な癒し系の童顔美少女だが、その天性の芸術的資質は周囲を圧倒し、竹本も完全に打ちのめされるのだ。結果、竹本は修復士になる道を選ぶ。芸術を自ら生み出すのではなく、他人によって生み出されたものを守る職業。実に苦しい決断ではないだろうか。

真山は器用で、あらゆることをソツなくこなす力量を持っているが、恋い焦がれた建築事務所の年上女性とは最後まで結ばれない。なぜならその女性には、真山と同じ建築の分野で天才的な資質を備えたパートナーを死なせてしまった過去があるからだ。死者に想いが残る者は死者にとらわれ続ける。真山は彼女の過去に太刀打ちできない。

森田はハリウッドの著名監督にも認められる才能を持ちながら、これまた最愛の人であるはぐみと結ばれない。はぐみは森田と高いレベルで芸術的感性を刺激しあうにもかかわらず、はぐみがパートナーに求めるのは刺激ではなく、「庇護と支援」だということが最終回近くで判明するのだ。生殺しにもほどがある。森田はスポットライトを浴びる才能がありながら、否、スポットライト浴びる側の立場がゆえに、自分と同じ舞台に立つ女性を支えられない。支えるのは凡才である裏方の役目なのだ。

このように3人は、「自分の努力ではどうにもならない状況」によって、三様に挫折する。それはまるで、夜中じゅう穴蔵の布団で心地良い夢を見ていたにもかかわらず、東向きの窓から射す暴力的な朝日の眩しさによって夢から醒めてしまった悲しみのようだ。どんな人間も、朝日が昇るのを自分の努力で止めることはできない。

「学生時代の貧乏下宿」は、おそらく男の子の一生のうち、もっとも快適で牧歌的でハッピーでモラトリアムで、永遠に続く文化祭のようなユートピアだ。そのまどろみをたたき起こす「朝日が眩しい東向き」は、彼らにとっては必ずしも「好条件」ではない。朝日それ自体は喜ばしい存在であっても、ある人間にとっては挫折の元凶であることもありうる。書物が直射日光で色あせてしまうように、自分以外の眩しすぎる存在に傷ついてしまうのは、年頃のナイーブ男子特有の青春病だ。彼らにとっての「朝日が眩しい東向き」は、安眠を妨げる「悪条件」以外の何物でもない。

ここからは蛇足ながら。

では、最終的にみんなのアイドル・はぐみと結ばれたのは誰かというと、はぐみの親戚にして長らくの保護者だった花本修司という30代の凡才美術教師である。ロリータでデリケートな天才美少女と、彼女を幼少期から庇護・支援してきた30代の男がくっつくなんて、ほとんど「光源氏と紫の上」並みに犯罪級の関係性ではないか!というお怒りは、ごもっとも。

ただ、『ハチミツとクローバー』連載終了の3ヵ月後、2006年10月に『会いたかった』というシングルでメジャーデビューした女性アイドルグループは、その数年後、はぐみと花本のようなイビツな関係性を「選抜総選挙」という仕組みによって、まんまと国民に啓蒙・浸透させてしまった。これは「オッサンが(CDを購入するという)自身の経済力によって、目当ての少女に庇護と支援を与える」ことを目的とする、たいへん完成度の高い仕組みである。

ただし、『ハチクロ』と「選抜総選挙」には大きな違いがある。花本先生ははぐみと一生手をつなぎ続けるが、オッサンは少女たちと、ごくたまに「握手」することしかできないのだ。

 

Photo via PAKUTASO

 

『ハチミツとクローバー』
羽海野チカ・作
連載:2000〜06年

 

 


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稲田 豊史
編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD雑誌編集長、書籍編集者を経てフリー。主な分野は映画、お笑い、ポップカルチャー。編集担当書籍に「団地団 ~ベランダから見渡す映画論~」「人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ」「全方位型お笑いマガジン コメ旬」「『おもしろい』映画と『つまらない』映画の見分け方」「『ぴあ』の時代」「成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論」「特撮ヒーロー番組のつくりかた」などがある。URL

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